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我が一族【3】牢屋みたいな空間で1年過ごした理由と弟との別れ。涙が止まらなかった。

俺のために消えてくれと思ったこともある…。でも、こみあげてくるこの感情。弟との別れ

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弟の涙から始まった雑記シリーズ。最終的には弟の涙に行きつくのですが、そこにたどり着くまでのエピソードが多すぎるため、シリーズ名を「我が一族」に換えて書き記します。

完全に私の経験による雑記なので、読んで頂いて得るものは何もないことだけご了承ください。

ここまでのあらすじ 

平凡なサラリーマンである私には、1歳年上の兄と2歳年下の弟がいます(4歳年下の妹もいる)。

 

祖母の葬式で久しぶりにあった男3兄弟。

私が所有するリップルの額や軽自動車に対し、弟のお金持ちぶりがなかなかである話。しかしお酒が進む中、突然弟が泣き出した話。

 

 幼少期、我々男3兄弟は田舎の誰もが知っている優秀な兄弟。

しかし広島に引っ越したことにより、それぞれの人生は大きく変わる。

兄はオシャレさんに。

私は平凡に。

弟は花山薫になった。

大学受験に失敗した私は、2畳に満たない倉庫で1年間ガリ勉をした。

過酷な2畳の倉庫での生活。

しかし好んで倉庫に住み着いたわけではなく、家を出なければいけない理由があった。

ここまで書きました。

 

大学入学(1996年)

倉庫で過ごした1年間の浪人生活を経て、私は京都の大学に進学した。

大学生活2年生までは本当に楽しかった。仲間に恵まれた。

 

今から25年ほど前。

インターネットもまだ十分に普及してなく、情報はテレビか雑誌の時代。

1年間のガリ勉浪人生活を経て入った、偏差値そこそこの関関同立大学。

超絶オシャレ兄と超絶ストリートファイターの弟を持つ私は、入学したての同年代の同級生よりも、別方面に飛び抜けた人生経験値を持っていたように思う。

 

兄は、まるで理解できない姿格好をしていた。へんなトラックみたいな車に乗っていた。JOJOに出てくるような服装。

弟は、ストリートファイター。どれほどのファイトをこなしているのだろう。

私は、一度もグレたこともない、中の上の高校生→ガリ勉だ。

 

ガリ勉の気晴らしで夜コンビニに行くと怖い人たちがたむろしていて

「おう!〇〇の弟か!!こっちこいや!!」

お祭りにいったら怖い人たちに囲まれて

「ちわっ!〇〇さんの兄さん!!」

と街で声をかけれられることも多く、自然とそっち方向にも詳しくはなる。

 

また私自身も若かったせいか、この頃は売られた喧嘩でどうしても許せれないものは買っていた。

友達がからまれて殴られた、とか。

気が弱いし力も弱いしで、ケガをして良いことはないので、なるべくそういうシチュエーションにならないように注意はするのだけれども、こちらの防衛線を軽々突破してくる輩は常にいる。

友達の大喧嘩を止めに入って殴られて友達以上にボコられて、緊急病院に運び込まれたことがあった。

あれは完全にとばっちりだ。

 

そんなこんなで『ガリ勉だけどもちょい悪もかじっている』的な感じの私と気の合う仲間がたくさんできた。

 

そいつらと遊びほうけた。

徹底的に遊んだ。

人生のスキマ時間のような、楽しいけれども怠惰な生活。

一般的な怠惰な大学生活を送り、1年生のときの取得単位は8。

 

いま、もし自分の子供がそんなんだったらぶん殴ってやる。

 

そうした京都での大学1年生活を終えた19歳の春。

広島の母から電話があった。

 

弟との別れ(1997年)

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「ただいま!ああ母さん、〇〇(弟)は!?」

「あぁぁ。ちょうどさっき出ていったよ」

少しまだ泣いている母さん。

 

俺は家を飛び出し、駅に向かった。

 

 

 

弟は17歳。

若くてエネルギッシュな弟は、このころ日々のストリートファイトを楽しんでいた。

 

「学校の勉強なんてそんなしょーもないことやってどーするんや」

弟は中学を卒業し社会に出た。この頃は鉄筋工だった。

 

弟は自分を曲げない。

理不尽に売られた喧嘩を全て買っていたのだろう。

 

弟がどれだけ悪かったかの不良具合や具体的エピソードを書くのは控えたい。

きっと読んで気持ちの良いものではないし、事件性があるものもあるかもしれない。

ただ、「1つの中学校や1つの高校のNO1の不良」「ちいさな界隈の有名人」レベルではないことだけは確か。

もちろん総合格闘家や柔道家とルールが決まった上で戦えばコテンパンなのだろうが、路上で1,000回殴り合いをした経験値や、銃で撃たれても突進していくレベルの経験値。

バキでいうところのジャックハンマー。

引用元:dic.pixiv.net

もしくは花山薫。

引用元:dic.pixiv.net

詳しく書きたい衝動にかられるが、自分の中の弟のイメージは彼らと重なる。

 

ルール無しのファイトで弟に勝てるのは自衛隊のレンジャーくらいなのではないかと本気で思っている。そのレベル。

私がこのブログを書くにあたり、もし身バレするならば年齢を逆算して弟からバレるのではないかと思えるくらいの暴れん坊将軍っぷりだった。

 

 

いや、弟が犯罪に関わったことがないということは、今となっては断言できる(それは感情論ではなく別ルートで確認している)。

 

しかし…。

当時19歳の私は平凡な大学生。

 

弟が嫌いだった。

 

いや…。

いつか弟が取り返しのつかないことをして、その責め、贖罪を自分も負うのではないか。

例えば人様の人生を大きく損なってしまうような。

 

その責めを自分も負うことになるに違いないと思っていた。

いなくなれば良いのに、と思ったこともある。

 

表現しようのない不安を頭のどこかに抱きながら、しかしその不安を家族に話すこともどうすることもできず、私は極力家族との距離を置いていた。

 

なので大学1年生の間で自分から実家に電話をかけたことはない。

 

このころ実家は引っ越しをし、小さな小さな1件家に母と弟、妹3人で済んでいた。父は単身赴任、兄は行方不明である。

 

そんな中で、京都の私に母から電話があった。

「〇〇(弟)、明日家を出て東京に行くって。一応知らせとこうと思って。」

 

私は京都のアパートを飛び出し、バイクで広島に向かった。

 

駅で追いついた

「ただいま!ああ母さん、〇〇(弟)は!?」

「あぁぁ。ちょうどさっき出ていったよ」

少しまだ泣いている母さん。

 

俺は家を飛び出し、駅に走った。

 

 

 

京都から広島まで下道でバイクで8時間。

考えがまとまらず混乱したまま、夜中の国道2号線をひたすら走る。

 

あんなに疎ましく思っていたのに、なんだろうこの気持ち。

絶対に今、会わないと、もう一生会えなくなる。

生きたあいつには。

 

やっと家に付いたのだが、間に合わなかった。

母さんは泣いていた。

ちょうどさっき出ていったという。

 

駅までは300m。

全力で走った。

 

そして駅の改札前で、弟に追い付くことができた。

1年振りに会う弟。1年前よりさらに凄みが増している。

 

しかし我が家は父親を頂点とした家父長制であり、子は父母を敬い、弟は兄を敬うのが染みついている(厳密には家父長制はそういうものではないが)。ストリートファイターの弟も、私を名前のあとに「兄さん」付けで呼ぶ。

 

「おう〇〇兄さん。久しぶりやのう」

 

ひとなつっこい、大好きだった弟の笑顔が広がる。

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父が外国でいつもいない中、母と兄弟4人で仲良くしていた記憶が奥底から蘇る。

懐かしいような、こそばゆいような、大切な記憶。

 

そうだ。

ストリートファイターになった弟。

殴り合いすれば片手で私をひねる強さを持つ弟。

もう関わり合いたくないと思っていた弟。

 

しかしどれだけ変わっても、やっぱり私の中では泣きながら私の後を付いてきたままの、かわいいかわいい、大切な大切な弟なのだ。

それにようやく気付いた。

 

大好きな弟。

私の前から去って行こうとしている。

もしかするとまさに今が、私の人生から去っていく最後の瞬間かもしれない。

 

「おまえ、行くんか」

「おお兄さん。行ってくるわ」

「なにしに行くんや」

「俺もわからんけどのう。なんかこのままじゃいかん気がしてのう」

 

「次は、いつ会えるんや」

「まあいつかそのうち会えるんじゃないんか。ちょっちょっと待てや兄さん、やめろや、泣くなや。俺まで泣いてまうわ」

 

気が付けば涙が止まらない。

 

「うるせえ。お前はいつもそうやわ。兄貴としてはたまらんわ。いっつもいっつも俺に迷惑かけてのう」

「いままでほんとうに悪かったのう兄さん」

「もうええわ。いいか、体には気を付けろ。ほんでお前、死ぬなよ」

「わかった」

「ちょっ、ちょっと待て」

 

餞別でお金を渡してあげたいと思って、財布を見た。

財布の中には11,000円入っていた。

一万円札を渡すか、千円札を渡すか。

3秒ほど迷い、一万円札を弟の手に握らせた。

 

「じゃあ〇〇兄さん、俺行くわ」

「わかった。母さんには連絡いれろよ」

 

そう言って弟は電車で東京に旅立っていった。

 

「渡すの、1,000円で良かったかな…。」

このあと大好きなクランキーコンドルを打ちにいく軍資金の1万円を渡してしまい、青7テンパイの快楽を得る機会を逃してしまったことに、私はちょっぴり後悔した。

引用元:ja.wikipedia.org

 

牢屋で過ごした理由(1995年)

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ここで時間は2年さかのぼる。

1995年。

私は17歳高校3年生。

弟は15歳で鉄筋工。

4LDKの社宅に兄弟4人の6人家族。

私と弟は6畳一間の相部屋だった。

 

高校3年生の私。必死に世界史を書いて覚える。

「ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世・・・」

「あああん、あうん、ああん…」

「ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世ネブカドネザル2世・・・」

「パン、パン、パン、パン…」

 

ダメだ。集中できねぇ。

新バビロニア王国2代目の王、ネブカドネザル2世を覚えられねえ。

どんな高性能耳栓を買ってきても、どうしても声と音が漏れて入ってくる。

 

2m隣で弟とその彼女が営む性行為の声と音が。

 

今日は我慢していた私も、ついにはブチ切れる。

「うるせえ!おどれら、俺が勉強しよるのが分からんのか!!外でやれや外で。おう?」

「うるせえ!!」

 

当時15歳の弟はギンギンギラギラ。

ほとばしる精力。

年上の娘と付き合っては、金が無いもんだから父がいない日のみを見計らって娘を家に連れ込んでいた。

いや、家というか、私との6畳の相部屋に連れ込んでいた。

 

私が勉強していても関係無く彼らは、した。

私も、横で弟たちが性行為を楽しんでいても関係無く、勉強していた。

 

上述したが、弟は私を殴ってはこない(怒鳴り返しはする)。

2m横で始まる性行為。

初めは面食らって怒鳴りつけて止めさせていたのだが、そのうち私もマヒしてしまい、私が耳栓を付けていればOKのようなルールがなぜかできてしまった。

タチの悪いことに、弟が連れ込んでくる娘は、兄貴の横で始めるという意味ではぶっ飛んでいるのだが「お兄さんこんにちは。いつも勉強中にお邪魔してすいません…」と礼儀正しい。かつ申し訳なさそうにはしている。

良い子なのだ。怒れない。

弟の要求を拒めないその子たちもかわいそうだし、何より弟を止めれない兄である私が情けないからでもあるので、そのうち私も怒鳴るのを辞めた。

 

3か月ほどその状態を我慢し、耳栓を付けて2m隣を気にせずに勉強をした。

しかしやっぱり気になって集中できず限界を感じていた。

ちょうど3年生の冬、受験した大学全てに落ちた。

 

この部屋ではダメだと決心し、1年間の2畳での倉庫生活が始まった。(過酷な倉庫生活については前回記事をご参照)

 

2m隣で弟が娘を連れ込んで性行為をするから。

これが私が1年間を牢屋のような空間で過ごした理由である。

 

私は「同一空間で性行為をされながら受験勉強した時間ランキング」というランキングがあれば、日本でTOP10には入る自信がある。

 

弟との再会

牢屋(のような空間)で私が1年間を過ごした理由と、それをイメージしやすくするためにその1年後に弟と別れたときの状況を、記憶そのままに書き記しさせて頂きました。

祖母の通夜の弟の涙から始まったシリーズ。

そこにたどり着くまでにいくらでも書けちゃうのですが、ただの家族日記ですし、書くのに時間もかかるので、無理をせずに書いていきます。

一応、今の時点での構想では別れた弟との再会から書きたいと思います。

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