サラリーマン お小遣い稼ぎ実践

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我が一族【2】牢屋(の方がよほど広い空間)で過ごした1年間。家には帰れない理由があった

1年間の浪人時代。1日平均14時間。最低8時間。最高20時間のガリ勉。問題はその場所にある

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前回から始めた雑記シリーズ。最終的には弟の涙に行きつくのですが、そこにたどり着くまでのエピソードが多すぎるため、シリーズ名を「我が一族」に換えて書き記します。

私の好きな言葉

前回記事の最後に好きな言葉は『滅私奉公』『一宿一飯の恩』と書いたのだが、もうひとつ大事な言葉を忘れていた。

起きて半畳寝て一畳。

人は必要以上の富貴を望むべきではなく、満足することが大切である、という教えである。清貧さを感じる、とても清々しい言葉だ。

しかしこれはもののたとえである。

実際にこれを体現したひとは、どのくらいいるのだろうか。

私に問われれば、「1年間だけならそれに近い経験をしたことがある」と答える。

今回はその話だ。これも弟につながっていく。

前回までのあらすじ

前回記事。

私は4人兄弟の次男で、1歳上の兄と2歳下の弟、4歳下の妹がいる。

祖母の通夜で兄と弟と久しぶりに男3人で飲んだ話だ。

私がぴたコインとリップルゲットで2,600円と70円の話をしようとしたら、(一般人の感覚では)とんでもない額の仮想通貨を持っていた、というオチ。

サラリーマンの私と違い、兄と弟は起業し、自由にそして裕福に暮らしている。

ように見える。

がそうでもないよな~。というところまでを記した。

 

私の小学校時代

我が一族は四国の小さな田舎町に住んでいた。

人口6000人くらいの小さな町。その地域にはやたらと多いが、全国的にはちょっと珍しい苗字の一族。

衰退する一方だが、町の産業は漁業と農業。町に自動式の信号機は2つしかない。

 

まだ1970年~1980年代。スマホはおろかPCも普及していない。

今からは想像もつかないが、情報源はテレビかラジオか新聞の時代。隣町(といっても隣町も人口3万人の田舎)まで10数kmの山を越えて、やっと『街』らしきものと触れ合うことができる。隣町まで出て、やっとJRの駅がある。

そんな時間がゆったり流れている時代の中の、さらにゆったり流れている田舎に私は生まれた。

 

父は無線通信士。海の男だ。

1年の大半を海外で過ごし、年に数か月田舎に帰ってくる。

外からの情報が、今と比較して極めて得られにくい時代の、さらに情報が入ってこない隔絶された田舎。その田舎に父が世界中からの土産話、情報を持ち帰る。我々4兄弟は目を輝かせてそれを聞く。

そういった点では、少し変わった田舎者だったと思う。

 

1歳上の兄は優秀だった。

この記事にも書いているが、

「ありゃ~今回の子はだいぶ劣るわ~」

私が生まれた時の祖父の第一声である(親父がブチ切れたらしい笑)。

兄は美男子、センス良し、頭良し、性格良し、人気者。

勉強しているところなんて見たこともないのだが、一度全国模試かなんかで4番に入っていたのを記憶している。

2歳下の弟は、成績は私並みに良いが、この頃はまだ天才の片鱗は無い。2歳上の私の友達をケンカで泣かしてしまう、よくいるガキ大将といったところ。

 

私は、兄に強く憧れた。

兄のように良い成績をとりたいと思い、小学生低学年から一生懸命勉強をした。町に塾なんて気の利いたものは無い。私は親に頼み込んで、たしか「スタディーファイブ」という名前だったと思うのだけれど、通信販売の教材を買ってもらったりして宿題以外の勉強にも励んだ。町に1件だけある本屋にいって「ドリル」を買って勉強するのが好きだった。

周りに勉強する子が全くない田舎の小学生。その中で勉強が趣味の私は、当然ながら成績は良かった。

ひんじゃくひんじゃくぅぅぅという訳でもない。私は剣道を修めており、大会の個人戦で優勝を数回経験している。冬は毎朝6時から寒稽古をした。

 

私は兄のようになりたくて努力した。

文武両道。絵に描いた優等生。

 

このダチョウ記事で書いたが、私が小学校5年生の時、父は無線通信士を辞め、突然ダチョウの卵を輸入した。そして2年ほど、生まれて初めて家族がフルシーズン同じ家で同じ生活を始めた。

5年生の時だったかな・・・。1学期の通知表がいつもオール5の兄だが、ちょっとだらけて4を何個かとったことがある。私の成績も少しだけ下がった。

その時父はブチ切れて、2学期の成績がもとに回復するまでは、一切ファミコン禁止となった。あれはきつかった。

父についてはまた次回以降に書きたいが、父は教育パパとは真逆の人間だ。初めて一緒に住んで、自分の子供たちが全く精いっぱい生きていないことを通知表を通して知り、キレたのだと思う。まあ、一番ファミコンをしていたのも父、最初に禁止の禁を破ったのも父だ。

母、妹についても、この物語にガチンコで登場してくる。しかしそれはもう少し先の話。

 

そんなこんなで、時代から隔絶された田舎町に

世界が見たくて18歳で町を飛び出し、十数年後に町に戻り怪しげな商売を始めた父と、兄を筆頭とした成績優秀な息子3兄弟。

限られた田舎空間にいれば、人の目もあり勉強を続け、その後も成績優秀な中学~大学時代を過ごし、一般的な会社員にでもなっていたであろう兄と弟。

 

しかし私が13歳の冬。

父が自営を断念し再就職をしたことで、我が一家は田舎を出て、生まれて初めて都会に引っ越しをすることになる。

場所は100万人都市、広島だ。

 

中学~高校時代

私が13歳の3学期。

田舎から100万人都市広島に引っ越しをした。

今思うと広島も田舎なのだが、度肝を抜かれた。なんだ、この人の多さは。生まれて初めてコンビニに入り、マクドナルドを食べた。

 

中学1年生3学期という難しい時期の転向だったが、私はなんとか順応した。40歳を過ぎてなお、いまでも親友でいるのは、中学校の友達だ。

成績は大きく落ちた。

今ではそんなこともないのかもしれないが、この時代は県によって採用されている教科書がマチマチ、進捗度合いもマチマチで、私は英語と数学と理科が苦手になった。

ガチで剣道をやっていたのだが、転校先の中学の剣道部が弱く、修練に身が入らなくなった。

遊びも覚えた。

そうなるとお金が欲しくなり、中学2年から新聞配達を始めた。新聞配達は高校2年まで4年間続けている(高校1年から愛車の原付スズキセピアZZで新聞配達を行うようになり、ずいぶんと楽になった)。

勉強もできる限り頑張った。転向前の学年TOPというレベルは維持できなかったが、上の下から中の上は死守し続けた。

そんなこんなで中学3年生の時、私立のそこそこ高校を受験。

十分合格できるレベルだったはずだがなぜか落ちて、普通に公立の高校に進学した。

 

公立高校。 

広島の国立大学、広島大学に1~2名、関西の関関同立に5~6名が進学できる、まあ中の上くらいの高校。

ここで、高校一年生の時同じクラスになり、以来一度も別れることなく時間を過ごしているのが、今の嫁様だ。

もし順当に私立の高校に受かっていれば、嫁様との出会いは無い…。

あとから分かる人生の岐路。面白い。

 

高校生になった私は、普通に高校生活を過ごした。

高校生活を大いに楽しんだ。16歳になり原付免許を取り、半年後に中型免許を取って、バイクにはまった。バイク仲間とよくツーリングに行った。嫁様を後ろに乗せて色々な場所に行った。

飲食店でアルバイトにも励んだ。年上の大学生と遊ぶのが刺激的だった。

 

新聞配達~学校~嫁様&バイク~飲食店。

この生活が3年続き、私はほとんど勉強をしなくなった。

 

兄と弟

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ここまで私の転校後の中学~高校時代を記してきたが、同じく転校後の兄と弟はどうなったのだろうか。

 

兄は・・・。

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グレた。

いや、グレたというよりもオシャレ男子の自由奔放な生き方に火が付いた、というのが適切だろうか。

大好きだった兄。いつも憧れだった兄。

しかし記事でも書いた通り、もろいとこともある天才肌の兄。

私より1年年上ということもあり、中学校生活にうまく順応できなかったのであろう。成績が急降下した。

高校受験では私の合格した公立高校に落ち、滑り止めのオシャレ男子校に通い、そこで自由が爆発した、という感じだろうか。

私にはさっぱり理解できなかったが、なんかファッションリーダーもどき?になった。ので服をよくこっそり借りた。

ケンカもよくしていた。

一度血だらけの顔の知らない人が家にいて、「あ、兄貴の友達かな」と思ってこんにちわとあいさつしたら、ボコられた兄貴だったことがある。殴り合いをそれなりに経験している人は分かると思うが、人間の顔はボコられるとパンパンに丸くなることをこの時初めて知った。

時系列的に書いていきたいが、私が高校3年生の頃、兄は一時的に行方不明になった。

 

 

弟はどうなったのだろうか。

弟は・・・。

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花山薫になった。(出典元:刃牙。画像差し替えます)

出典元dic.pixiv.net

この出典元に花山薫のことが説明されている。

ヤ〇ザさんにはなってないだけで、それ以外は私の中でそのまんま花山薫になった。

こなしたファイトの数知れず。百戦錬磨のストリートファイター。

しかし父の教えを堅く守り、温厚で情に厚く、非道な行為は決して許さない。

まあ、花山薫はギャグなのであるが、私がこの歳になっても夜街で昔やんちゃだった系の人たちと談笑するときに、私の苗字から「も、もしかして〇〇さんのおにいさん?」と紐づいてしまうことが何度かある。

弟の話はまた次回以降の記事に書くとして、時系列的に書くと、私が高校3年生の時、弟は16歳。高校には進学しなかったので、ストリートファイトを最も楽しんでいる頃だ。

 

田舎で仲の良かった優秀な男の子3兄弟は、

長男は自由人に。

三男はストリートファイターに。

次男の私は勉強をしないただの成績の悪い高校3年生になった。

 

堕落。しかし奮起した

堕落した高校3年間。勉強はほとんどしていない。

現役で受験した大学は全て落ちた。受かる大学は無かった。

 

私はその頃、そんな自分や兄と弟がどうしても許せなかった。

天才と呼ばれた兄も弟も学業を修めることを辞め、好き勝手に生きていることに。

俺たち故郷では優秀な3兄弟じゃなかったのか?

5年やそこらで、なんでそこまで変わっちまうのさ?

お前ら、勉強はよ?

 

同時に、父に対して本当に申し訳ない気持ちになった。俺達息子どもは、父の想いを大きく損なっているのではなかろうかと。

しかし・・・。

警察に呼ばれないだけで、自分もスカッと生きているわけではない。ダラダラとした高校3年間を過ごし、これから何をするかも決まっていない。成績も悪い。行ける大学も無い。

 

よし、決めた。

俺は中庸を堂々と生きてやる。

立派なサラリーマンになる。

そのためにはまず勉強だ。

そうして私は1年間の浪人生活をスタートさせた。

ビリギャルもドラゴン桜も真っ青。これが俺の勉強方法だ

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この写真は私が浪人し、もうすぐ大学受験の試験直前に、中学のツレが私の部屋に遊びに来た時の写真だ。もう試験直前の追い込みの時。

私は兄と弟に引っ張られたせいで、今はおっさんだが当時はそれなりにオシャレ男子だった自信がある。この恐ろしいほどダサい服と髪で街をうろついていたわけではないということだけは断っておきたい。

 

私の勉強方法は、おそらく現在推奨されているであろう方法と真逆の方法だ。

 

ひたすら書いて覚える物量作戦。ひたすら、書く。

コツも予備校も自分には何も必要ない。愚直に、ただ、書く。

勉強に楽しみは必要ない。ただ、愚直に書く。

 

ノートに一心に単語を書いていく。それが英単語であれ、世界史であれ。

ひとつの単語を100回書く。100回書いたら次の単語を100回書く。

単語帳が終わったら、また最初まで戻って、100回書く。ひたすらその繰り返しだ。

愚直にそれを繰り返す。一歩一歩。

写真に載ってあるペンを1日1本使い切るのを楽しみにひたすら書いた。覚えれない単語は、壁に書いた。

勉強時間は1日平均14時間くらいだったと思う。それを浪人の1年続けた。

成績はみるみる上がった。

特に世界史は国士無双となった。解けない問題は無くなりどんな試験でも必ず100点を取れるようになった。もちろんセンター試験も100点だった。

当時世界史の教科書17種類の単語を1まとめにしていた単語帳があった。17種類の内1つの教科書しか採用していないマイナーな単語も全て覚えた。高校レベルの世界史に存在する全ての単語を100回書き切って単語帳が終わったら正の字をつけていった。それを107回繰り返したから。

反面、この勉強方法では英語がダメだった。浪人してもセンター試験は146点だった。国語は184点だったと思う。一番の苦手の数学はダメダメで、書いて覚えれるはずもなく、ガチで勉強してもセンター47点だった。

写真の壁にもうっすら広大と書いてあるのが見えるが、広島大学に行きたかった。広島の大学で無ければ、嫁様と遠距離恋愛になるからだ。

しかし広島大学2次試験の2日前、この写真の後ろにいるやつが2年付き合ってきた彼女に振られ、励ましにバイクでかけつけようとして雪道で転びケガをして、2次試験を受けることができなかった。

問題はその場所にある

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しかしもし広島大学に行っていたら・・・。

別の理由で嫁様と別れていたかもしれない。近すぎて嫌なところが見えたりとかそんな理由で。(ボーダーだったので2次試験を受けても落ちた可能性が高いけれども)あの時親友が彼女に振られなければ、バイクで駆けつけることもなかっただろう。

やはり人生の岐路は面白い。

ちなみにその友人は4年後よりを戻して結婚して幸せに暮らしている。

 

そうして第一志望の広島大学に落ちた私は、関関同立のどこか大学に通うことになった。

1年間のガチ勉強。本気で勉強をした。

1年間自分ができる努力を出し切った。

もしかしたら、1年間ガリ勉をしてその程度?と思われる方もいるかもしれない。

でもその通り。1年間本当に自分が出来る精いっぱいの努力をした。これ以上は自分にはできない。これが自分の天井だと胸を張って言える。

自分のBESTを尽くした。

現役時代どの大学にも合格できなかったところからスタートし、自分を律し自分が出せる精いっぱいの努力を積み上げたこのときの経験は、私ののちの人生の大きな財産になっている。

 

 

 

さて、ここでようやくタイトルにふれることにする。

 

上の写真の空間の広さに、少し違和感を感じて頂けるだろうか?

 

私の左は壁。友人の右側は本棚。

2人が座ればいっぱいの空間

 

タイトルで書いた

『牢屋(の方がよっぽど広い場所)で過ごした1年間。』

好きな言葉の

『起きて半畳寝て一畳』

に近い経験をしたことがあるという言葉。

 

その言葉に一片の偽りも無し。

これが私が1年間生活した場所だ。

 

牢屋?での生活

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全体像。

トランクルーム?倉庫?で1年間生活をしていたのだ。

広島の転勤先で3LDKの社宅があてがわれた。その社宅の前にトランクルーム?倉庫があった。

牢屋もびっくり。2畳に満たない広さ。

この写真の倉庫が私の生活空間。

浪人が決まってすぐに、このトランクルームにまず電気を引いた。

壁紙を貼って単語を書けるようにした。

続いて布団を敷いた。その上に机を、横に本棚を置いた。

より快適にするために、夏は扇風機、冬はストーブを持ち込んだ。

自給自足を実現するために、ポットを持ち込んだ。

2畳に満たないこの空間を『家』とした。

この部屋で生活をする。

この部屋で起き、勉強のみをし、この部屋で寝る。

この部屋で生きる。

寝癖がひどいのは、寝ていたのにガンガン扉をたたいた友人に起こされた直後だから。

 

当然、窓なんてない。

光なんぞはブロックのスキマからわずかに差し込むだけだ。

蛍の光、窓の雪?

こんなスキマじゃ蛍も入ってこないし雪に反射する光もなし。

トイレは近くの公衆トイレで。

重要な用事がある時とカップラーメン以外のものを食べるとき以外は家にも帰らず。

 

この牢屋のような空間で、ただひたすらに勉強をした。

漆黒の部屋に入るとまず電気を付ける。勉強以外にできることは何もない。

ひたすらに勉強をし、疲れたら布団に倒れこむ。

目が覚めると目の前にある机に向かいひたすら単語を書き続ける。

いや、机に向かうというより「机しかない」という表現が正しい。

腹が減ったらポットのお湯でカップラーメンを食べる。食べ終わったら近くの公民館の流しであらい、ゴミを所定の場所で捨てる。

そしてまた牢屋に戻り、勉強。

この小屋で起き、この小屋で寝る。

体を横にすれば布団しかなく、体を起こせば机しかない。

文字通り、寝る以外は全て勉強という環境を作り上げた。最高20時間勉強。

 

これぞ文字通り

『起きて半畳寝て一畳』未満

 

この生活を1年間ぶっ続けで続けた。

面白がって友人もこの牢屋にしょっちゅう来て、語らうことも多くあったが。

ちなみに嫁様もけっこう来た

この写真は厳寒の1月31日。深夜。

きっとこの経験は人生の思い出になるから記念に写真を撮らせてくれと友人が撮ったものだ。厳寒の中上半身裸になっており、友人の1人はケツを出しているのでアドセンス的にどうかと思って黒塗りにしているが。

 

どうして家を出る必要があったか

今回は私の兄弟を語るにあたり、幼少期から浪人時代までを記させて頂きました。

現役の大学受験で挫折。そこから切り返して本気で勉強をするためには、どうしても家を出る必要がありました。

もちろん、この牢屋、過酷な環境です。特に冬は厳しかった…。

あそこに人が住んでいると噂にもなりました。

倉庫で生活する男。間違いなく変人です。

しかし、本気で勉強するためにはどうしても家ではダメな理由がありました。次回はそれを書き記します。家族の色々な話が絡んできます。

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